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姓名判断歴史シリーズ:徳川家康

天下人・徳川家康

姓名判断歴史シリーズ:徳川家康1
天下人『徳川家康』は現代人にも影響を及ぼす、偉人な中でも際立つ存在です。
戦国の世を完全に終わらせ、その後264年の長きにわたる江戸時代という太平の世をつくった人物です。

家康がいなければ現代を取り巻く環境は異なる様相となっているでしょう。
彼が創出した江戸時代は、徳川家を保持するため、大名を巧みに配置転換し、中には大名を没落させたり処刑をしたりしました。
結果的には人臣を流動させて、私たちの先祖が出合う人間をも変えたことにもつながるわけですから、間接的には家康がいなければわたしたちに繋がらないはずです。
(だから徳川家康は“有名”なのですが・・・。)

偉業の概要として家康がつくった江戸幕府は、秀吉の前政権やそれ以前の室町幕府や鎌倉幕府の統治機構を研究して、それらの弱点を克服して造られたのが江戸幕府の統治機構です。
ちなみに江戸幕府は黒船来航を原因として264年後に崩壊にいたりますが、いわば外圧がなければ江戸時代はさらに続いていた可能性はあります。やはり見事な政権システムといっていいと思います。

今回のテーマの結論を先に言えば、天下人家康にも失敗や絶体絶命に陥った事件が何度かあります。家康が不都合な現実・危機に直面した時に、どのように克服をしたのか。
家康の歴史から、参考にできることを探したいと思います。
また、すべての偉業事績は徳川家康という名前が持つ運勢に導かれたということを樹門流姓名判断の観点からご説明いたします。

家康の事績

姓名判断歴史シリーズ:徳川家康2
まずは実際の徳川家康の事績です。
記事が長いです。
後でピックアップする項目は、家康が37歳の時、48歳の時の事件です。(家康の事績を大体ご存じの方はそれ以外のセクションは端折っても結構です。)

家康6歳

三河の弱小大名に生まれ、父である松平広忠は隣国の今川氏(今川義元)に臣従するため、家康を人質として主従関係を結びます。

家康7歳

家康が人質生活の中、父広忠が死去。

家康19歳

今川家で人質生活を送りますが、織田信長が主君筋の今川義元を桶狭間の戦いで破ります。それによって今川家は混乱に至り、そのさなか家康は一大名として独立をしたことにより人質生活は解消。
独立後は織田信長と同盟を結び自国の国力を増強。(同盟といっても主は信長で従は家康で、厚遇された客将の位置付け)

家康31歳

戦国最強の軍事力を持つ武田信玄。当時台頭していた信長を抑えるべく京都に向かう途中、家康の領地を黙って通過。家康は自分が無視されたことに激怒し、家臣のいうことも聞かず出陣、三方原(静岡浜松付近)で信玄に戦いを挑みます。結果は武田軍に惨敗、家康は命からがら城に戻ります。この時家康は恐怖のあまり馬上で脱糞。家康にとっては最初で最後の負け戦になるのですが、これを一生の戒めとします。

家康37歳

織田家と徳川家の同盟関係の中、家康の長男(信康)と妻(正室)築山殿が信長に対する謀反を疑われる事件が起こります。
これまでの同盟を反古し、信長と徹底抗戦する道もありましたが、結局は大名として、徳川家を存続させるため、信長と主従関係を保つために家康は長男を切腹させ、妻をあやめています。苦渋の選択を強いられています。

家康41歳

強大な同盟者である織田信長が、明智光秀によって本能寺の変で亡くなります。
軍勢を整え明智光秀を討つために進軍をしようとしますが、豊臣秀吉によって光秀がすでに討たれたことを知り、織田領であった甲斐・信濃(現在の山梨・長野)を攻め入り領土拡大だけに留めます。

家康42歳

信長亡き後、秀吉の次に大名の中では最大領土を得たことで、秀吉と対抗する唯一の敵対勢力となり戦となります。局地戦で勝利はしたものの、交渉で秀吉に和睦に持ち込まれます。そのまま戦を続けて抗戦する道もありましたが、家康は豊臣政権に組する道を選びます。

以後、秀吉が亡くなるまでは秀吉に臣従を誓います。秀吉の子を豊臣政権の後継者として立て、天下人の座を狙うそぶりは微塵も見せませんでした。
後年の家康の行動を見ると、皮をかぶって状況を耐え忍んだかがわかります。
事実、家康の手相は「ますかけ(別名:猿手)」であったそうです。

家康48歳

本能寺の変後、三河・遠江・駿河・甲斐と信濃半国(現在の静岡、長野、山梨)を領土に持つ大大名であった家康。
豊臣秀吉が関東を領土に持つ小田原の北条を倒し天下統一を果たします。
ところが、秀吉は家康に「広大な関東をあげるゆえ、三河一帯(静岡)を捨てよ」と江戸に領地替えを命令します。

当時の都である京都。江戸は三河よりさらに京から離れた僻地です。またそのころの江戸はまだ原生林が残る場所でもありました。結局、三河を捨て江戸に向かうことになります。

家康56歳

豊臣秀吉が死去。
秀吉死後はあからさまに豊臣政権下で自身の権力を振りかざすようになります。

家康58歳

傍若無人の家康の行動を苦々しく思う豊臣家の重臣・石田三成と対峙し、「関ヶ原の戦い」が起きます。この戦いで勝利し、敵対勢力を一掃し、念願の天下人の道を辿ります。

家康61歳

朝廷に働きかけ征夷大将軍の地位を得て、江戸(東京)を政治の中心とします。
江戸に幕府を開いたことで、豊臣家の重臣の立場でありながら将軍になったことにより実質的な支配力は豊臣家を凌ぐことになります。
(関ヶ原の戦いは形式上、家康と石田三成という豊臣有力家臣同士の主導権争いでした。)

家康66歳前後

いまだに一定の力を保持する大坂の豊臣家、それに対する江戸の徳川家。二つの権力が共存する形を家康は危惧。徳川家に権力を集中させるために、全国の寺社を修繕するために豊臣家にお金を遣わせ財力を削ぐことに腐心します。

家康72歳

豊臣家が修繕したお寺の鐘に書かれた文字を見つけて、徳川家を冒涜したと難癖をつけます。そして、豊臣家を討伐する大坂の陣が起こります。
しかし、豊臣家の居城“大坂城”は亡き秀吉が造った難攻不落の天下の名城。最初の大坂の陣(冬の陣)では城は堅牢ゆえに鉄壁。家康は豊臣側になんとか和睦へ持ち込み、条件として大坂城の防御力を無力化させるため、堀を埋めて城をほぼ丸裸にします。

家康73歳

二度目の大坂の陣(夏の陣)では、防御力を失った大坂城は為すすべくもなく攻められ、奮闘むなしく城は炎上し、ここに豊臣家が滅亡します。

家康74歳

名実ともに徳川家が天下人の地位を確実にして、それに安堵したかのようにし逝去します。
当時の平均寿命は50歳ですから、まるで天下を得るために長生きをしたようにも見えます。
つまり寿命が長かったという天運も家康に味方をしてくれたのです。

苦悩の乗り越え方

「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」と言われる家康の一生。
後世の人がみても忍耐の連続の人生だったと思われますが、彼の人生から、今に学ぶべきところは多いにあると思います。

幼少期は誰もが受け身ですので人質生活はやむを得ないと思います。
19歳の家康の今川家からの独立は、若さと、お家再興は武士にとっても至上の目的ですから、自然の流れであったと思います。
また、58歳の家康の関ケ原の戦いは博打です。
関ケ原前夜まで必死に全国の武将に対して買収工作をしています。ですので、あとは天命にかけたと思います。そこに迷いはなかったのではないでしょうか。

家康の事績の中で、特に考えさせられる家康の二つの選択について考えてみたいと思います。

一つは、37歳の家康が信長に謀反を疑われた時です。
跡取りである長男とその妻の命を守るために信長と全面戦争をおこすか、それとも信長の命令にしたがって大名家として家の存続を取るかの選択です。

前者の場合。子供と妻を守って徹底抗戦を選んだとしたら、武力に優れる織田軍に徳川は完全に滅ぼされるでしょう。一方で後者の場合、子供と妻の犠牲はありますが、徳川家とその家臣団の存続は叶います。
とても辛い決断ですが、当時の武士の考え方は、武家である家の存続は至上命題です。
ですので、後者の選択は多くの命が生き延びることができる、その“実(じつ)”をとった解釈が可能になります。

もう一つの選択は、48歳の家康が、秀吉の天下統一(小田原征伐)後に、三河一体の領地を没収され、代わりに関東、江戸に領地替えを命令されたことではないでしょうか。
ちなみに元の住まいである三河は(八代前から)先祖代々、住み慣れた土地。家臣にとっても先祖代々の土地ですので、家臣団は当然ながら江戸行きに反対します。

結果はさびれた漁村のような江戸に入府するのですが、家康にも葛藤はあったと思います。
家臣たちには江戸の町の発展性のポテンシャル・メリットを伝え納得させたと言います。考え方によっては先祖伝来の地という“名”にしがみつくよりも、天下人秀吉という時流を冷静に鑑みて、江戸の町の大きさへのポテンシャルにかける実をとったような形かもしれません。

31歳の家康が感情の激怒から武田軍に大敗した三方ヶ原の戦い以降、感情論は鳴りを潜め、二つ(子と妻の謀反嫌疑と江戸の領地替え)の選択から次のことが分析できるのではないでしょうか。
冷静に現状を見つめて確実に将来生き延びるための選択をする。ずいぶんと未来思考・未来志向が前面に出てくるのです。

2020年4月現在、未来に向けた思考回路は、今まさにこの世界では特に大切だと思います。
リアル世界で携わる経済被害は計り知れません。しかし、ある一部の経営者はいつか客足が戻ってきた時、いつでもお客様をこれまでと同じように満足させられるように、すでに新型コロナ終息後の世界を考えていると明るい話もありました。

当事務所も樹門流占い師による直接鑑定は、対面鑑定よりも、コロナの影響から電話鑑定またはオンラインの直接鑑定を前面に出しています。
二代目樹門幸宰による個人教室は、落ち着くまで、スカイプやZOOMによるオンラインのみの教室を受け付けています。

今はさらに、徳川家康のように未来志向を探る道しかないと思います。
次のトピックは家康の運勢のカラクリについてです。

占い:家康の運勢

姓名判断歴史シリーズ:徳川家康4
家康は戦国時代当時の慣例の中で、名前を複数回変えています。

(家康0歳:)松平竹千代(A)

(家康13歳:)松平元信

(家康16歳:)松平元康

(家康21歳:)松平家康

(家康24歳:)徳川家康(B)

という名前の変遷を辿ります。
ここでは最初(A)と最後(B)の名前を占術の観点で説明いたします。

家康幼名:松平竹千代の運勢

(A).松平竹千代の運勢
最初の“松平竹千代”は家康幼少時の名乗りで主に人質時代を過した名前です。
これを樹門流占術で見ると、「どうして俺はこうなるんだろう」とこれでもかと人生において後悔が出て悲哀を味わいます。

これは『養子相』といって、主体性は他人にあり受け身となる運勢でもあります。
自らが望むことと、天が授ける環境に大きなハンディがあり、最劣勢の条件で生きなければならない宿命があるのです。

実際の家康の人生は人質生活からのスタートであり、出発点はプラスではなくマイナスの要素が目立ちます。
人質であるがためにいつ何があるかわからない、風前の灯のような境涯です。
これはまさに運勢が示す内容のままの人生であると言えます。
とても無慈悲な運勢ですがこれには原因があります。

家康の母方の祖母について

今回の主人公は徳川家康ですが、家康を占術的に語る上でもう一人の主人公が出てきます。それは家康の母方の祖母にあたる“お富”について説明をしなければなりません。
母方の祖母である“お富”は生涯で5回結婚をし、数奇な人生を歩みます。
身分が低かったのですが美貌の持ち主で三河地方の豪族水野忠政と結婚し、家康の“母”の於大を産みます。
やがて、“お富”は水野忠政と離別し、家康の父方の祖父にあたる岡崎城主松平清康と再婚します。ちなみに清康は25歳で暗殺され、“お富”はその後も諸豪族に次々に嫁ぎますがすべて先立たれています。

家康幼名:松平竹千代の運勢の原因

養子相である幼名松平竹千代の運勢の原因は、エゴを馳せて配偶者の人格をつぶし、離別や死別等で子供を扶養しなかったり、夫婦の仲たがいで子供を泣かせたことです。
つまり“お富”は初縁の相手を結果的にエゴで人格をつぶして子供を捨て置き、泣かせたことで養子相の運勢である松平竹千代の名がつけられたとみるのです。
史実では初縁の相手は水野忠政ですが、その前に実質的な配偶者がいてその間に子供がいて、その子供を残して、その後に水野忠政と婚儀を結んだ可能性が浮かび上がります。

家康本人からすれば預かり知らぬ内容ですが、運勢とは時に残酷で、そのようなものです。
“お富”が子供を泣かせたという因縁が幼少時の家康に隔世遺伝をし、家康が泣くこと(人質)によって因縁を浄化しなければならないようになっていたのです。
これを松平竹千代の運勢の原因「因縁A」とします。

家康の最後の名前:徳川家康の運勢

(B).徳川家康の名について
徳川家康の名前は時の天皇から「徳川」姓を賜り名乗った名前です。
時に家康24、25歳でした。
この運勢型は一言で言えば、夢、ロマンの人生運です。

目指しているものは、携わった世界の第一人者とか権威者となり、その世界で覇者として君臨し、権力や支配権を握ることです。
また長い歴史で培われてきた習慣や文化遺産も「そんなもの」と否定するところがあります。

頭を押さえつけられたり、干渉や束縛を嫌う運勢です。
つねに、自分は一番であり、偉い人で威張りたいという天上天下唯我独尊の潜在意識があります。
あまりに自負心が強すぎて、素直さや謙虚さが欠如していて、そのアクの強さが善用されると、文字通り世の中が抱えている矛盾や惰性に思い切ったメスを入れ、世の中を刷新するほどの大改革や改善ができます。

家康の最後の名前:徳川家康の運勢の原因

この運勢の原因は世間(社会)や身内からも白眼視され、失意と屈辱という底辺をさまよった因縁があり、まるでその因縁を跳ね除けるように“世間を見返したい”という強烈な意志をもった孫が誕生します。
ここでも母方の祖母“お富”の呪縛は続き、“お富”の政略結婚または度重なる結婚から世間や身内にも白い眼でみられ苦しんだことを伺い知ることができます。
これを「因縁B」とします。

徳川家康が創出した江戸幕府は歴史上強大な政府機構であることはすでに申し上げましたが、これは最後の名前である“徳川家康”がもつ運勢がもたらせた偉業だと言えます。

姓名判断歴史シリーズ:徳川家康5

史実と占術の観点

実際の家康の性格は保守的とよく言われますが、運勢総体として保守的であり革新的であったともいえます。
事実、旧態でも良いものは採用し、結果新しいものを創出しました。
織田信長や豊臣秀吉から学び、良いものはそのまま徳川幕府に移行し、結果、強固な支配体系が確立されたために、戦国時代を完全に終結させることができ、日本史上類を見ない長期安定政権となったことは否定できない事実です。

「因縁A」の松平竹千代の名の運勢の頭脳性は保守的で、応用より基礎的な物事に適した頭脳体系です。
一方の「因縁B」徳川家康の名の運勢の頭脳性は革新的で変則型の頭脳体系です。名前の変遷を成長と照らし合わせた場合は、保守的頭脳で成育し、成人後に革新的頭脳を得たことになります。

“お富”の存在

忘れてはいけないのは家康の母方の祖母の“お富”の存在です。
先に申し上げた「因縁A」と「因縁B」は壮絶な事実(無念な思い)があったからこそ徳川家康の偉業が生まれました。
また、この名前の変遷にはもう一つの因縁が付加されます。

「因縁A」と「因縁B」をもつ2つの運勢は本来相性が生じやすくなります。たとえば男女間であれば俗的に赤い糸の相性といえる間柄にもなりやすいものです。

しかし、家康の名の変遷は最初の「因縁A」の運勢と最後の「因縁B」の名を“一人”で相性を抱えていることとなり、するとすべてにおいて自己完結ができる強い決断力をもって世に向かう運勢に変わるのです。さながら一人でも生きていける強固な性格で人生を歩むのです。
これを自活運と呼び、実に強く逞しい性格になります。

“お富”の事情

「因縁A」と「因縁B」の2つの変遷の因縁は、祖母の“お富”が誰からも助けてもらうなく『孤立無援』であった事実をもあぶり出します。
これまで“お富”から派生した複数の因縁がありましたが、家康の名前の変遷から“お富”が味わった感情の時系があらわになります。

  1. むにやまれない事情で子を捨ててきてその子を不憫に思った。(「因縁A」の松平竹千代が誕生。)
  2. 世間や身内からも白い眼で見られ、底辺を味わった。(「因縁B」の徳川家康が誕生。)
  3. 誰も助けてはくれず孤立無援であった。(「因縁A」「因縁B」をあわせもつ子孫が誕生。)

これらすべての既成事実が家康の名の変遷を導いたのです。
遺伝の仕組みは、祖先が経験した忘れてはならない記憶や感情が、今度はそれが生き抜く方策として子孫に受け継がれます。

祖先が抱いたマイナスの感情を二度と味わないように、それを受け継いだ子孫は、生き残るために祖先の行動・思考パターンとは逆の作用、つまりまったく違う人生を自然とねらいます。
運勢は痛手が大きければ大きいほど揺り戻そうとした結果、行き過ぎて正反対に向かうような現象が起こりえます。

つまり、祖先にあたる“お富”がもがき苦しんだ苦労が、家康は天下を取るほどまでの能力や実力、または運を形成することができたと考えられるのです。
逆を言えば、家康が天下人となった事実から、“お富”の生涯は言語に絶するほどより深刻で過酷な人生であったことが推測もできます。

ちなみに徳川家康の母の於大も夫がなくなり、またその後政略結婚など過酷な人生でした。
母、娘ともに自身の存在が無意味だとも思えるような人生を二代にわたって経験するのです。
さらには家康の父の広忠、父方の祖父の清康も、ともに25歳前後で暗殺されてこの世を去っています。
父方も母方も不幸すぎる出来事、つまり感情の遺伝子は強く反動して、家康をして天下人の器量を充分にもつ運勢をつくっていったのです。

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