姓名判断の魂ゆら占い

占い de 歴史を100倍楽しくする方法

歴史×占い(樹門流姓名判断)によって、歴史を10倍も100倍にも楽しく感じることができます。
歴史を100倍楽しくする方法1

外崎家

私は“自分が生まれたルーツ”を深く感じることができる日本史が大好きです。
父方の姓である「外崎(とのさき)」は青森県弘前市を中心に、西部の青森市を含んだ津軽地方。北海道函館などの南部、秋田県北部に見られます。

その出自(ルーツ)は平安時代末期に生きた足利氏の祖「足利義康」の長男で、その長男が外崎氏の遠い遠い先祖にあたるらしいです。ちなみに「足利義康」の三男から数えて六代後に室町幕府初代将軍の足利尊氏が誕生します。
“家系伝説”では我が家も立派な源氏となります。

問い

質問です。

「あなたの家は父方と母方の家、どちらが栄えていましたか?」
過去をさかのぼってください。

「母方の家が栄えていた」と答える方が比較的多いと思います。
その理由ははっきりしています。

家三代

初代を飾るのは必ず男性で、そこで財を成します。
初代の男性は衰退してきた家を能力で盛り立てます。家が興隆する時は必ず男系である男性が家を興すのです。これを初代と呼びます。
歴史を100倍楽しくする方法2
しかし、次の代の二代目では初代の以上の力は望めません。二代目からは初代が築いた財の維持をはかるようになり、男性より女性がたくましくなり、女系化が進行するのが二代目になります。
三代目になると女系化はエスカレートしていて女性は男性より優勢になります。初代、二代目、三代目と家の流れを1つのサイクルとして、どの家もいずれかの代の人が現時点で存在しているはずです。

問いの答え

女系の時代は三代のサイクルの中で二代も含まれることになります。
「母方の家が栄えていた」と答える人が多くなる理由は、女系が長引くとそこに生まれる子どもは女性が多くなりますし、初代の両親は女系(=三代目)、二代目の両親は男系(=初代)、三代目の両親は女系(=二代目)という構造になります。したがって、三世代中、二世代の人は女系ということになるがゆえに「母方のほうが栄えていた!」という状況は生まれやすくなります。

本題

さて、「歴史を100倍楽しくする方法」について。
それは樹門流姓名判断を用いることによって、500年前や1000年前の歴史上の人物であろうとその人がいかなる思考性で、どんな使命をもって、さらにどのような性格なのか。姓名判断から知りうることができます。

その人物の運勢の輪郭が浮かび上がるのはもちろん、歴史上の事跡と照らし合わせると、その事件に際して、本人の葛藤や精神状態でさえ、推し量れるようなところが出てくるのです。そして偉人であろうと生身の人間であるということがわかります。

織田信長

例えば、1582年に起きた京都の本能寺の変。

“織田信長”は明智光秀の謀反をはじめて知った時、どのような胸中であったのか?

歴史を100倍楽しくする方法3
史実の彼は当時としては珍しく科学合理的な性格として知られています。
イタリア宣教師と一緒に同行した黒人奴隷、初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかと信用せず、目の前で着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころか、より一層黒く光ったことから本当に肌が黒いことを納得したといいます。
その黒人に大層興味を抱き「弥助」と名付けて正式な武士の身分に取り立て、身近に置きます。
 また、当時の戦国領地の人員構成は半農半士で平時は農民として、戦があるときは武士としての働きがそれまでの主流でした。それを信長は職業軍人をつくり信長軍を編成、季節に関係なく常に戦える軍団・軍人を作りました。
これが信長軍の強さとなり、織田家が飛躍するエンジンになります。
後期の信長軍は北陸部隊や中国部隊など地方別に軍団に軍団長(明智軍、秀吉軍、柴田軍など)を編成、その軍団同士で功名を競わせます。これは信長の思考である合理的な考えがなせるわざといえるでしょう。

本能寺の変

1582年6月2日未明。
異常な状況に目を覚ました信長は本能寺が数万の軍隊に取り囲まれていることが判明します。
信長は「囲んでいるのは誰か」と家臣に尋ねます。
家臣は「日向守(明智光秀)でございます。」と答え、信長は一言「是非に及ばず」と叫びます。

「是非に及ばず」は“当否や善悪をあれこれ論じるまでもなく、そうするしかない。どうしようもない。しかたがない。やむを得ない。”というのが辞書的な意味です。

明智光秀はとても優秀な武将でした。常識人で人脈の幅が広く、支配地域の治世力、築城術にも長けるなどマルチの才能を持つ織田軍団でも屈指の実力者でした。
明智光秀の高い能力を買ったうえで家臣に組み込んだのは信長本人です。すでに本能寺はアリの這い入るスキもなく脱出は不可能であることを悟ります。

明智軍は総勢1万。対する信長はわずかな手勢数百人。
当初は弓矢を手に取り応戦。その後、弦が切れ、槍をとり敵に応じます。
しかし兵士の数でかないません。
ヒジを負傷し、その頃にはすでに火がかけられ、火の手が近くまでに及びます。
そこで殿中の奥深くにこもり、内側から納戸を締めて、自害して果てます。

信長の葛藤

注目すべきは「是非に及ばず」の言葉の真意です。
後世の歴史家は「是非に及ばず」の意味を、“ジタバタしてもしょうがない”や“戦って死に場所を得るのみ”とか、その真意はいまだに議論されています。
この真意と心の変遷を樹門流姓名判断で考えてみます。

歴史を100倍楽しくする方法4

信長の運勢

“織田信長”をこの占術で解きます。
性格は科学合理的で白黒をはっきりさせ、目に見えるもののみを信じる人と解きます。そして勝ち気で負けを認めようせず、どんな場面であっても勝者をねらいます。そして運勢的には人生の後半が弱い中盤運があります。
信長が執着する絶対的ポイントは『勝ち』か『負け』です。それがすべてです。
全人生において勝つことに執着します。信長の運勢であるタテ型(別称:A型)という運勢の人はみなそのような運勢の輪郭をたどります。

「是非に及ばず」の真意

戦国時代、戦での『負け』は死を意味します。
言い放った「是非に及ばず」という言葉には信長は「もう生きられない」という、完全なる敗北を味わった絶望感。
同時に、その絶望感を押しのけられるように。『勝ち』には至らないまでも、せめて“気力”だけはその絶望と相殺できるほどの気持ちをもって最期を迎えた。これらの心の変遷および心理状態があっての「是非に及ばず」だったと現時点では考えるのです。

正解はもはや知りえることはできません。できませんが、このようにこの姓名判断を知ることによって歴史上の偉人が身近な存在となってよみがえります。
この方法で歴史を10倍も100倍もおもしろくできるような気がするのです。


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