姓名判断で読み解く:奇跡年齢・豊臣秀吉の奇跡

樹門幸宰が様々な事柄や著名人について奇跡年齢にフォーカスをしぼった特別稿です。

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豊臣秀吉の奇跡

豊臣秀吉は戦国時代を語る上では、信長・家康と並んで外せないキーパーソンの一人です。 今回は農民から天下人へと登りつめ「戦国一の出世頭」とも評される秀吉に訪れた奇跡についてお話しましょう。

奇跡年齢

ここで、初めて読む方のために「奇跡年齢」について御説明申し上げましょう。 皆さんは「奇跡」と聞くと、物事が好転したり、救われたりと良いことばかりをイメージするのではないでしょうか。 ですが、辞書を引いていただければ分かるように、「奇跡」とは常識では理解できないような事柄全般を指し、不運であったということもまた、奇跡なのです。
また、「奇跡」は偶然のタイミングで起こるのではありません。年齢の和(1の位と10の位を足して一桁にした数)が「1」「4」「6」「7」「9」の時に起こるようになっています。
では奇跡年齢の数字とその意味をご覧下さい。
例)27歳→2+7=9で和数「9」 58歳→5+8=13→1+3=4で和数「4」
 
年齢の和数「1と6」はスタートの年齢で、死への旅立ちという意味もあります。
年齢の和数「4と7」は身内などが原因となって、主に凶の奇跡が起こる年齢です。
年齢の和数「9」は自分が主軸となって起こす奇跡で、“完結”の意味があります。

このコラムの初回でお話したように、本来「凶の奇跡年度」である和数9の年齢の時に良い結果を出した人は『家三代の興亡』で言う“興隆代”で、初代となる可能性が高いものです。
祖父母代、父母代と2代続けて困難に耐える人生を送ったからこそ、奇跡が続き、初代となるのです。
ですが、良い奇跡というのは何度も連続して起こるものではありません。通常は3回が限度で、4回目の奇跡ともなれば人生転落することとなります。祖父母の代からの徳分が尽きた時の奇跡の年度で凶となります。

では、秀吉に訪れた奇跡と名前の変遷をご覧下さい。

1554年
(18歳・和数「9」)
木下藤吉郎 様々な職を転々とした後、尾張国の織田信長に仕える
1566年
(30歳)
木下秀吉 墨俣城を短期間で築城し美濃攻めの足がかりを作る。
1573年
(37歳・和数「1」)

37歳・3+7=10、1+0=1、つまり和数1
羽柴秀吉 小谷城の戦での浅井長政攻めで貢献。その功により自身初の城を持つ。
1582年
(46歳・和数「1」)
本能寺の変。主君織田信長の仇、明智光秀を討つ。この軍功により織田家での発言力を高め、主導権を握る。
1585年
(49歳・和数「4」)
藤原秀吉 大阪城を築城し、ここを居城とする。人臣の最高位である関白となる。
1586年
(50歳)
豊臣秀吉 朝廷から豊臣姓を与えられる(豊鑑では1585年)
1590年
(54歳・和数「9」)
小田原城攻めを行い全国統一
1591年
(55歳・和数「1」)
関白職を退き、「太閤」と称する。
また有能な弟、秀長が死去。次第に豊臣家の繁栄は下降しはじめる
1598年
(62歳)
病により没する。63歳没(和数「9」)説もある。

家族や関係者の間では不思議と奇跡年度が重なるものです。
本能寺の変の時、織田信長は49歳=生数9・和数4、明智光秀は55歳=和数1、そして豊臣秀吉は46歳=和数1の奇跡年齢でした。 和数でみても生数でみても奇跡年齢に該当していた信長が非業の死を迎えたことは皆さんもよくご存知でしょう。
光秀と秀吉の二人はスタート・再生・旅立ちを刻む年であったわけですが、光秀は死への旅立ち、秀吉はスタートという正反対の結果になりました。

さて、ここで皆さんは「良い奇跡は連続して起こるものではないと言うが、秀吉には良い奇跡しか訪れていないではないか」と思われる事でしょう。
確かに秀吉一代を見ればその通りです。ですが、秀吉の死後の豊臣家はいかがなものでしょう。
秀吉と正妻ねねの間には子供がありませんでした。また数十人とも言われる側室との間でも誕生した子供はわずかで男子では2人(一説には男子3人)でした。 長男の鶴松は3歳で夭折。秀吉の後を継いだ次男秀頼は大阪夏の陣で破れ自害、秀頼の息子(秀吉の孫)はわずか8歳で刑に処されました。

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ここで秀吉の名前の変遷にご注目下さい。
秀吉は「仁・義・礼・智・信を身につける事で人から賞賛されたい。人格、人権をきちんと認められたい」(木下藤吉郎・「ヨコ型(別称:C型)」)という名前から 「生まれながらに二番手の立場。時が経ちトップがいなくなった時には立派に代役を果たす」(羽柴秀吉・「中一差型(別称:I型)」(タテ系))、 そして最後に名乗ったのは「カリスマ性を持った人気スターを狙い、世間をアッといわせたい」(豊臣秀吉・「斜め型(別称:B型)」)という名前でした。 まさに名前が示す通りの人生を歩んだわけですが、厳密に見るとどの名前もが家系の存続が危ぶまれる構成となっています。
中でも最後に名乗った「豊臣秀吉」が秀吉亡き後の豊臣家の結末を決定づけたのです。
さらには、この名前の変遷は『自活運』といって、元の名前と最後に名乗った名前が相性型になっています。これもまた、直系の血筋が耐えてしまう「絶家代」である事の証なのです。

農民の子として生まれた秀吉は18歳で信長に仕え、54歳で天下を統一しました。 しかしながら、最後に名乗った名前が「絶家代」であった為に豊臣家は断絶という最後を迎えました。
秀吉一代で徳分を使い果たしてしまったのでしょう。
(執筆日2009.6)

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